昭和五十六年十一月五日 朝の御理解
御理解第五節
これまで神がものを云うて聞かせる事はあるまい何処へ参っても小便で願い捨てであらうがそれでも一心を立てれば我心に神が御座るからおかげになるのぢゃ生きた神を信心せよ天も地も昔から死んだ事なし此方が祈る所は天地金乃神と一心なり
真の信心をせよと、まあ仰せられてあるみ教だと思うですね。真の信心とはだからご利益を受けるとか、いわゆるおかげを受けるという事で神様仏様と言うておるけれどもまあ話のような話ですけれども、仏様神様の中にもいうなら悪神邪神というのがまああるような、まああると 定してまあ聞いて頂きたいと思うです。
我が心に神がござるから一心を立てるとおかげになるとたとえて云うとまあ奇跡というようなおかげ御利益を受ける事も出ける。たとえば邪神だと云うても、初めから我は邪神とは名のっていない。いかにも正、本当の神、仏のようにして現れる。
なかなか見分けがつかんのだけれども、私は最後の所にこの方が祈る所天地金乃神と一心なりとこう仰せられるね。
いわゆる合楽で云われる天地人一如の世界にあり住みそういう天地の護法おかばいというか保護を受けていけれる信心こそ本当の私は信心じゃないかと思うです。昨日、一昨日でしたかビリグイから若先生宛てにまあ面白いというか、すさまじいというか、そんな事を書いて手紙が来ております。
最近南米ブラジル国にはもう異様な雰囲気があります。もう奇々怪々である。というのは或る所に半身は人間で半身は獣というたような子供が生まれた。でそれがその予言を、いつ頃になる。いつ頃はどういう事が起こる。そういうことが二つも続いた。ほらあ、云うならあちらの一流の新聞がそれを取り沙汰する程しであるというのである。そしてなるほどもうそれこそ今までかつて五十年もブラジルに住んであったという日本人の方が、五十年間にこういう事は初めてというような、いうなら天地異変というでしょうかね、もうすさまじい例えば風が吹くというても何もかも吹き倒してしまうというような、大変な事がその地方に起こる。まあ云うならその為に戦線恐々だと。そういう中にあってビリグイ地方だけは穏やかですという事が書いてあるね。
私はその手紙をここで読んで頂いておりましたらね、神様から、それこそこんなに抱きかこえる(一かかえほどの大きさを示された)。それも大きな大きな大蛇がもうのたうちまわっておる所を頂きました。
先達てからローマ法王が日本にみえましたね、もう行かれる所いかれる所寒波続きでした。もう最後の長崎ミサのなんかの時かなんかの時にゃ沢山の人がその為に倒れる。怪我人が出るといったようなまあ惨事がおこりました。おかしいですね、天地の親神様の信心を頂いて天地の御守護を受けていく、それこそ天地が自由になるとさえ云われるそれにそういう事がその時だけ起こってくるという事。ね皆さん今日の話のような話としてきいて頂きたいんです。ねそこでですね先達から頂きますよう過去数千年にわたって様々な宗教が出けた中にもキリスト教とか仏教というのはまあ世界最大の宗教でもあります。もしキリスト教がその正体が大蛇のような物であったらどうでしょう。
ね例えば仏教でもそうですね、ただ頭でっかちとでも申しましょうかね、そのから生まれたまあ例えば宗教。論理的な宗教、やはり宗教いや仏教哲学と云われるように、一つの学問になるそうですが、それを究めようとすれば大変なまあ事らしいですけれどもね、それによって云うならば天地の護法御守護が受けられるというような私はおかげの世界に住まわなければ本当なこつじゃない。
ね云うならば、考えて考えて考えぬく。云うならば思索である。云うなら頭脳です。頭から練り上げたまあ宗教、思索から生まれた宗教。ね仏教はそういうふうに云われますですね。思索から生まれた。キリスト教はさまざまな奇跡をおこして、云うならばその奇跡から生まれた宗教だと云われております。どちらをとっても教祖金光大神が云われる、此方が祈る所天地金乃神と一心なり、しかも宗教とはねウかんむりに示すとあるように、天地が示して下さるみ教えを教えるのが宗教だということになってくる時に、金光大神の頭脳から思索から生まれた宗教でもなからなければ金光教には奇跡がないと云われております。
教祖の御信心には、云うならばもうただおかげはあるけれども、それは五と五とたせば十になるといったようなおかげ。おかげは和賀心にあり。我が心が正しく云うならば、天地のシンに繁るような心になるから当然おかげになっていくのである。女と男が合体すれば子供が出来るというような一つの理の上にたってのおかげである。 キリスト教なんかはね、云うならば男性が無いなりに生まれると行ったようなねキリスト教ではそこが信じれなかったらキリスト教は死んでしまうと云われる位。処女受胎である。どんなに考えても道理に合わないのです。
昨日親愛会でございましたから、今本部に勤めております渕上先生がいつも研修に参加致します三回足します。今度はあちら子供が生まれましたからそのお礼もかねて参拝してきている。
それでちょうど合楽の先生方が五人続けて息子ばっかり生まれた。だから丁度五人目だったから私が五徳(いつのり)というお名前を頂いた。五つの徳というのである。それでその、まあ字引をひいてみたとそして驚いた。今日は御理解五御説ですけれども、この五という字は、すばらしい意味があるんだそうです。ね五というのは、これは大体の字は上に一をこう書いてですね上、下に一の字を書く。そして中にこうXの字を書いたのが五の字だそうです。だから上下のこの一の字は天地を現すものだそうです。その中のXの字は陰陽交流の姿だそうです。ねXの字、五という字はそげんなっとるでしょうが、五という字、天地そして中のXの字は陰陽交流の姿と字引にあるそうです。
ねまあ今日の御理解の中から云うと教祖の神様が此方が祈る所天地金乃神と一心なりと、一つである。天地が一体であるねその合体の姿の中から生まれてくる宗教金光教である。これはなら、私は思うですね最近お互いがこうやって信心させて頂いておかげを受けるの受けないのという事ではなくてです果たして自分達が一生かけて願っていく自分のまあおすがりするという神様が果たしてどういう神様なのかを本当に究めてからでなければいきなりしたら、それこそ大蛇を拝んでるような事があるかもしれません。ただ人間の頭脳から生まれた教だけを正しいと思うて修業しておる宗教者があるかもしれません。ね金光教、いや特に合楽で説く御理解はもうどこまでも天地の道理に基づいて、しかもこれは天地が親先生を通して伝えて下さるであろうと思われるような教を日々頂いておるのですからまあ、そこから生まれてくるおかげをもって真のおかげといい、その信心こそ真の信心だと確信してその信心をいよいよ究めていくという一気にならなければいけないと思う。
成る程おかげさえ頂けばというのは、我が心に神がぞざるから一心を立つればおかげになるという。ねキリストは大変、大変な霊能者であったに間違いありませんよね。死人が蘇るような奇跡を現した人ですから。けどもそれだから正しいと云う事ではない。だからそれを有難いと云うてはならない。これも今云うような話のような話として聞いて頂きたい。
内米の池に合楽のいうなら正しい神様が現れなさった。そしてその比礼をこうだんだん大きくしていかれておるので、それこそ大蛇が少し苦しみ出した。まだまだ正しいというても小さい力ですからそれに打ち向かってどうという事は出けんに致しましてもね、いうならばその、ここに正しい宗教が本当にに大きくなったら、いうなら大蛇はほろびてしまうかもしれん。その苦悩というか苦しみが、私が御神願に頂いた大蛇がのたうち回っておる姿ではなかろうかというふうに思いました。
まあ皆さん話のような話として今日は聞いてください。だけれども、ねそれでいて例えば今日あたりの御理解をこう頂いてみてです、本当に有難い信心を頂いておるものだという事をまず有難いと感謝していよいよその信心を究めていかなきゃならない。ここでもその、いわゆる天地人一如の世界という事を私は申しとりますが、なら誰でもその天地人一如の世界に住む事の出けれる手立てが合楽理念である。
ね昨日先生方のまあいわゆるお取次ぎの場で、まあぎりぎりの御信心をその体験発表等いろいろなさっとりました中に、山口の長田先生があの発表しとられるのを頂いて有難いなあと思うた事なんですけれども、合楽では貧争病なき世界という事がいわれてるが、もう私共はいよいよ貧争病の中にあるですけれども、それをひとつも貧争病と感じんですむおかげを受けとるという話をなさいました。そんなら貧争病じゃないわけですよね。
難儀そのものを有難いと頂いておるといわれるのです。これはまあ、過去の宗教なんかでもだんだん心の状態が開けて来ていうなら龍安寺の手洗いあの手水鉢じゃないですけれども吾唯足るを知る。どういう中にあっても不平もなからなきゃ不足もないと、ならいうなら清貧に甘んずるというか、その清貧、その貧なら貧を清いものとして有り難い物として、勿体ないとこう頂いていくとこういうのである。
ね所がそれにはね私は金光大神の信心はどこまでも家繁盛子孫繁盛の道といわれるのですから繁盛していかなきゃならない。ねいうなら自分だけが悦に入って居る。
貧争病の中にあって貧争病を感じないですんで居るということは尊い事であり有難い事だけれどもそれが繁盛につながる手立てにもう一つ私は何かが考えられなからにあならないのじゃないだろうかと、いうで申しました事でしたけれども、教祖の神様はただ有り難いで開けた道じゃなくて、有難い「此の方の道は有難いで開けた道」とおっしゃっておる。だからその有難い有り難いでは苦労はさせん。ただその今日ここでいわれる常時の世界ね常に自分の心の中に有難いなあと、もう一つ向うに合楽の世界があるんだと。為にはねその有り難いなあとこういうとる、その有難いもう一つ有難いと生き生きとしてくると、その有難いが次の信心修業になり、御用になる、合楽に足を延ばすという事になるわけなんだ。そこからいうならば合楽世界の顕現という事になる。教祖様はそれを”あいよかけよの世界”とこう仰せられた。いうなら今日の五の字からいくと天と地とを一つに結ぶ事の出ける陰陽合体の姿というものが私共の生活の上にも頂けるようなおかげを頂きたい。
その天地一如の世界陰陽合体の姿の中から生み出されてくるおかげ。そういうおかげの手立てを説いてあるのが合楽理念。そういうところから見てもです正しい信心を頂いておるという事をまずは思うてね、キリスト教が蛇体、とも仏教が頭でっかちの信心という、こりゃまあ話として聞いてください。ね、いわゆる金光教の今私が頂いとる信心がいよいよ絶対間違いないということの為にまあたとえ話として話したのですから、決めつける事ではない。ねけれども私どもが頂いとる信心は決めつけようのない程しのすばらしいものである。私が合楽の評判が悪いとこう言う。それは誤解なんです、分かっていないのです。だからその誤解がとけたら、分かられたら、その方は一段と信心が進むだろうといっておるようにね、ように間違いのない信心をお互いが頂いておるという事にいよいよ有難いというか、本当に有難い信心に御縁を頂いたもんだなあというその所の喜びがねいうならば有難い有難いということになってくるのじゃ無いでしょうか。ただおかげを頂いて有難い、不平言わんですむ不足言わんですむというならばなら他の宗教でも頂だけるかもしれんけれどもね、それにもう一つ有り難いを添えれねばおれない程しの私は信心。
合楽の信心はそういう信心を身につけていきたい。ね 有難い有難い。もう大事はいらん自分だけが有難う頂いていけばよいというのではなくて今日はまあ話のような話を聞いて頂いたんですけれども、そういう話のような中から、なら合楽の信心は金光教の信心を分らして頂くとこのかたが祈る所は天地金乃神、天地と同魂、天地金乃神と一心ですかね。と仰せられます信心、ですからいつも天地の保護天地のおかばいを受けることが出ける。降るはずの所も降らんですむ、寒い所でも今日は本当に暖かいおくり合わせの中にというようなそういうおかげが頂けるね。そういういうなら天地が自由になる程しの、自由になるじゃない自由に私ともの為になって下さる程しの信心をお互い頂いとるという事をもっと深く広く分からしてもらはんならんと思うです。 どうぞ